人を憎むという行為の代償

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ネットの誹謗中傷に対して何らかの規制が必要だという流れになってきて、やさしさに溢れるまではいかなくても今までよりは平和で友好的なインターネット世界になるのではないか、と期待してしまった私の頭の中はお花畑だったらしい。

「残念ながら、そんなことはありえない」と言い切るその理由を読むと頷くことばかりだし、ますます自分の考えの甘さや浅はかさを思い知るはめになった。

 

特に後半の、御田寺さんに対して誹謗中傷を繰り返していたアンチが御田寺さんに謝罪してきた話が興味深かった。

自分が誹謗中傷の加害者という自覚が全くなくて「御田寺さんのような人がいるから自分は生きづらいんだ」という理由で被害者だと思っていたというのが恐ろしい。

そして大勢の人が共感して応援してくれたことで自分のしていることは正しいのだという思いをますます強くしていき、そういう人の期待に応えるのが楽しくて誹謗中傷を続けていたという。

これはまさに御田寺さんが冒頭に書かれていた

ネット上の中傷に対する問題意識が高まり「誹謗中傷をみんなやめるべきだ」と、多くの人が異口同音に申し立てる。しかしどういうわけか、その「みんな」のなかに自分は含まれていないようだ。

ということのいい例ではないだろうか。

 

そして、人を憎むという行為の代償について書かれているところが最も印象に残った。

 

私は彼の告白を聞いて「インターネットで他人を憎むのはやめよう」とますます考えるようになった。なぜなら、だれかを憎むということは、その憎んでいる対象に自分自身の人生を預けることにもなりかねないからだ。

憎んでいる他人がいまどう過ごしているかによって、自分の機嫌が左右される。自分の人間関係が揺れ動く。憎んで、侮蔑して、見下しているはずのその人間に、あたかも自分自身の人生や幸福感の「裁量権」を与えているような、わけのわからないことになってしまう。

だれかを憎めばその瞬間、あろうことかその憎んだ相手が、自分をコントロールするようになってしまう。自分の人生のステークホルダーとして、よりにもよって憎き相手を任命してしまうのだ。これ以上にナンセンスという形容が相応しいことはない。

 

私はインターネットで人を憎んだことはないけれど日常生活では人を憎んでしまった経験があるので、人を憎むということがいかに精神を消耗させその健全性を失わせるものかということをある程度は知っている。そして憎むまいとすればするほど憎まずにはいられなくなってしまう苦しみも経験している。

もし、そんな時に「今自分は、あんな奴に自分の幸せを決める権利を与えている」「自分の人生に影響力のある人物として、あんな奴を指名してしまっているんだ」という視点から捉えることが出来たなら、相手を憎む以外のもっと建設的な行動も取れたのではないかと思う。

今後、日常生活でもネットでも誰かを憎んでしまいそうなことがあったら、御田寺さんのこのコラムを思い出すことにしよう。